著者:緒方義広。韓国・弘益大学助教授。政治学博士。専門は日韓関係史、在日朝鮮人問題。
米国ハーバード大学ロースクールのJ・マーク・ラムザイヤー(J. Mark Ramseyer)教授による論文「太平洋戦争における性行為契約(Contracting for sex in the Pacific War)」がいま国際的に批判を浴びている。オランダの出版社が発行する国際学術誌『法と経済学の国際レビュー(International Review of Law and Economics)』のサイトに昨年12月、公開された論文だ(学術誌の発行は来月の予定)。
一気に広がった国際社会の批判
「慰安婦は売春婦、性奴隷ではない」とするラムザイヤ―論文の要約を日本の産経新聞(1月28日付オンライン)が「意義は大きい」として紹介したことが、先月1日、韓国で初めて報道されると、論文への批判が相次いだ。韓国では、ラムザイヤ―教授の肩書が「三菱日本法学教授(Mitsubishi Professor of Japanese Legal Studies)」であり、日本の三菱グループからの寄付金によって設けられたポストであることや、彼が2018年に日本政府から旭日中綬章を受けていること、幼少期を長く日本で過ごしたことなども注目を集めた。
ラムザイヤ―教授は過去、「慰安婦」問題のほかにも、日本の被差別部落、在日朝鮮人、沖縄の辺野古基地問題、関東大震災における朝鮮人虐殺事件についても論文を発表しているが、今回の問題をきっかけにそれらの論文への批判も高まっている。
いずれの論文も英語の執筆であったことや、彼の主なフィールドが会社法や法経済学などであったことからか、それぞれの専門分野(歴史学、社会学、政治学など)では大きな注目を集めてこなかったようだ。しかし今回、過去のものを含め彼の論文について、歴史を歪め差別を助長するものであるとの批判とともに、文献・史料の恣意的な引用など、そもそもの学術的な水準について改めて問題視されている。
1月末以来、米国をはじめとする英語圏の研究者から問題の指摘と批判が相次いでおり、フェミニスト学識者、韓国系米国人協会、ハーバード大学の学生たちからもラムザイヤ―教授への謝罪要求や大学当局の責任追及、批判や署名活動が展開されている。
こうした状況について、一部には「言論弾圧だ」「表現の自由の侵害だ」などとラムザイヤ―論文を擁護する人たちもいる。しかし、多くの日本史研究者が当該学術誌に対し掲載の撤回を求めており、日本でも著名なアンドリュー・ゴードン(日本史)、カーター・エッカート(朝鮮史)といったハーバード大学の教授や、ラムザイヤ―論文で使われているゲーム理論の専門家、経済学者による批判の声明(http://chwe.net/irle/letter/)も発表されている。

日韓の専門家たちによる批判
批判声明や署名活動だけではない。ラムザイヤ―論文の問題をめぐりセミナーや討論会なども各国で開催されている。3月12日には韓国で、14日には日本で、かねてから日本軍「慰安婦」の問題について研究・活動してきた専門家たちを集めたオンライン・セミナーが行われた。
日本でのセミナーは「慰安婦」問題にかかわる学術的な情報を提供するwebサイト「Fight for Justice」の主催、学術研究団体である歴史学研究会、日本史研究会、歴史科学協議会、歴史教育者協議会の共催により、「もう飽きた!「慰安婦は性奴隷ではない」説~ハーバード大学ラムザイヤ―教授の歴史修正主義を批判する~」と題して開催された。「Fight for Justice」は、やはり歴史学研究会等との連名で「新たな装いで現れた日本軍「慰安婦」否定論を批判する―日本の研究者・アクティビストの緊急声明―」(http://fightforjustice.info/?p=5103)を日本語・英語・韓国語で発表し、ラムザイヤ―論文の問題を指摘している。
一方、韓国でのセミナーには歴史学者だけでなく法学者、社会学者なども参加し、ラムザイヤ―論文の史実の検討における欠陥とともに、その主張の背景にある根本的な問題について議論がなされた。「ラムザイヤ―教授‘事態’を通して見たアカデミー歴史否定論」と題された韓国のセミナーは、長年にわたり「慰安婦」被害者を支援してきた日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連)、日本軍「慰安婦」歴史館(ナヌムの家)とともに、継続的な研究を続ける専門家の集まりである日本軍「慰安婦」研究会によって共同主催された。
それぞれのセミナーで指摘された議論をすべて網羅することはできないが、ここでその一部を紹介しておく。
専門家たちが共通して指摘しているのは、その主張内容以前に論文の学術的な不備である。文献・史料の恣意的な引用にはじまり、先行研究を無視し、根拠のないままに提示された主張など、学術論文としてその杜撰さが批判されている。
論文内容の具体的な問題についてここでひとつひとつ取り上げることはできないが、「慰安婦」研究の第一人者でもある中央大学名誉教授の吉見義明は、論文が芸娼妓契約や「慰安婦」契約を対象にしていながらその契約書をひとつも提示・検討していない点や、「慰安婦」とされた女性たちが当時どのような状態に置かれていたかについて検討がなされていない点などを指摘している。
また、近代日本の公娼制度などを専門とする立教大学教授の小野沢あかねは、日本の公娼制度と「慰安婦」制度がもつ深い関係性を指摘しつつも、軍が主体となった「慰安婦」制度の特異性を無視し公娼制度と同一視したラムザイヤ―論文の問題など、根拠となる史料を提示しつつ批判している。
韓国・慶北大学ロースクール教授の金昌禄 (キム・チャンノク)はラムザイヤ―論文の問題について、オーストラリア国立大学名誉教授のテッサ・モーリス=スズキ[1]や、米国ノースウェスタン大学教授のエイミー・スタンリーら5名の共著[2]による批判論文が早々に発表されており、それらをもって世界的な学問コミュニティーによる評価はすでに終わっていると見做す。
金昌祿は論文そのものの問題を超え、ラムザイヤ―論文が登場した背景にある歴史修正主義の問題を指摘する。「河野談話」を通じて日本政府ですら認めている「慰安婦」被害の事実と強制性の問題をなきものにせんとする日本軍「慰安婦」否定論者の試みが米国にまで拡大したというのだ。

韓国のセミナーでは、ラムザイヤ―論文そのものの批判はもとより、日本軍「慰安婦」問題をめぐる言説の問題に議論が発展した。
東北亜歴史財団研究委員の朴貞愛(パク・チョンエ)は、「慰安婦」問題を否定するために引き合いに出される公娼制度をめぐる認識の問題について言及し、人権・戦時性暴力の問題として「慰安婦」制度と公娼制度の深い関係について議論されることの重要性を指摘している。韓国社会でも広く一般には伝わっていない、「慰安婦」問題の本質を問う議論であると言えよう。
さらに、聖公会大学東アジア研究所HK教授の趙慶喜(チョウ・キョンヒ)は、今回の事態について、これまでの世界的階層秩序を前提とした米国におけるアジア研究の学問倫理を検証するきっかけとしなければならないと指摘する。ラムザイヤ―教授による過去の論文からは、日本国内の非差別部落民や、沖縄、在日朝鮮人をめぐる問題がアジアにおける「特殊な事例」として扱われることで、人種的・階級的差別の主張が可能になっていることが分かるというのだ。
ラムザイヤ―教授の著作には、日本で発行された学問的な裏付けのない著作やインターネット上の無責任な言説などが積極的に引用されているが、今回のラムザイヤ―論文も、そうした歴史修正主義や少数者嫌悪というヘイト言説の容認のもとに生まれたものであると言える。
米国カリフォルニア大学サンディエゴ校(USCD)歴史学部教授のトッド・ヘンリー(Todd A. Henry)も、1990年代以降積み重ねられてきた数多くの学問的成果をまったく考慮しないまま、国際社会の成果をなかったものにしかねないのがラムザイヤ―論文であると厳しく批判している。
差別やヘイトを生む歴史否定
多くの先行研究が積み重ねられてきているにもかかわらず、なぜ日本軍「慰安婦」の歴史はいまだに否定され続けるのか。
韓国をはじめ国際的に多くの注目と批判を集めるラムザイヤ―論文だが、日本の大手メディアではこの問題を積極的に取り上げていない[3]。ラムザイヤ―論文の要約まで報じた産経新聞ですら、現時点(3月15日)でその論文をめぐる国際社会の反応について伝えていない。ラムザイヤ―教授は、今回の「慰安婦」論文に関し、問題の核心となる契約書史料が存在していないことを自ら認めたと伝えられているが、本人も掲載学術誌の側も論文を撤回するなどの措置をとっていない。
しかし、米国有名大学ロースクールの教授という「権威」によって執筆された「学術論文」であるがゆえに、その社会的な影響を憂慮する声が上がっている。
ラムザイヤ―論文の歪んだ歴史認識に基づいた主張が流布され、それを根拠にした差別やヘイト、歴史の否定が再生産される可能性が指摘されているのだ。私たちが、ラムザイヤ―論文のような言説の不備や誤りを議論に値しないとして放置してはならない理由である。
[1] Tessa Morris-Suzuki, “The ‘Comfort Women’ Issue, Freedom of Speech, and Academic Integrity: A Study Aid”, The Asia-Pacific Journal Japan Focus, Volume 19, Issue 5, 2021 (https://apjjf.org/-Tessa-Morris-Suzuki/5542/article.pdf).
[2] Amy Stanley, Hannah Shepherd, Sayaka Chatani, David Ambaras and Chelsea Szendi Schieder, ““Contracting for Sex in the Pacific War”: The Case for Retraction on Grounds of Academic Misconduct”, The Asia-Pacific Journal Japan Focus, Volume 19, Issue 5, 2021 (https://apjjf.org/2021/5/ConcernedScholars.html).
[3] 沖縄タイムスは、ラムザイヤ―教授による沖縄差別の問題を報じている。https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/714039