[李官厚コラム] 依然として希望は政治にある
[李官厚コラム] 依然として希望は政治にある
  • The New Stance編集部
  • 承認 2021.04.26 20:52
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(編集部)韓国の優れたコラムを紹介するコーナー。今回は政治学者・李官厚(イ・グァヌ、44)による『京郷新聞』のコラム(4月26日掲載)を同紙の正式な承諾を得て翻訳掲載する。

4月7日、韓国ではソウル・釜山両市長を選ぶ補欠選挙が行われ、与党・共に民主党が大敗した。直後から与党議員は反省と革新を口にする一方、勝者の最大野党・国民の力は「私たちが勝利した訳ではない。文在寅政権への審判だ」と謙虚な姿勢を見せた。だがそれから約3週間が経つ今、政治に変化は見られない。李官厚氏はそんな韓国政治の現状を鋭く追及する。

●依然として希望は政治にある(李官厚)

選挙後、二つの主要政党は「どちらがよりダメなのか」という競争にでも突入したようだ。

選挙で現れた民心はとても明らかだった。民心は一つの政党に警告を行い、別の政党には良くやった事は無いとしつつも機会を与えた。当然、民心の真意を悟って行動する方が有利となる。しかし、両党ともに国民の善意を振り払っている。負けた政党は敗北を認めておらず、良い成果のない政党は、我が道を突き進む姿を見せている。

直接的な要因はまず、目先の利益だ。現在、両党ともに党としての思いが民心と大きく遊離している。当事者たちもそれを知らない訳ではないだろうが、ただそれにそっぽを向いているだけだ。 党内の選挙では民心を無視する方が有利だからだ。

こうした選択はもちろん、韓国政治だけでなく自らの政党の未来すら暗くするものだ。それなりに合理的な動機も存在する。自党が民心から少し離れてしまうとしても、相手の党がさらに遠ざかると信じている。いずれの党でも常識的に政治に臨む人を探すことは容易ではない。国民のための政策を繊細に悩むよりも、何とか目立ち、注目を集めようとする試みが横行している。

この程度の利己心や無責任ならば、それでも我慢できる。最も深刻な問題は、民主主義と政治を無視する人々の我執だ。自分が正しいと考えるのは自由だ。その程度の信念があってこそ政治も行えるのだろう。しかし、彼らが政治をする人間である以上、少なくとも他人の話を聞くふりはしなければならない。そうでなければ、それは民主主義でも政治でもない。

信念はそれが、国民に感動を呼び起こす時に効果がある。それは国民を説得するための道具だ。 信念が国民を説得できない時、その信念は退場しなければならない。それが民主主義だ。

信念と我執は違う。信念は、すぐには勝利できなかったが、その正当性を多くの国民が認めてくれるに値するものだ。我執は多数の国民が「違う」と言っているのにもかかわらず、自分が正しいと信じ続けるものだ。信念が勝利したことはあるが、我執が生き残ったことはない。

韓国の政治が過去のどんな時よりも堕落し傲慢になったということは、選挙後に有権者を非難する政治家が登場したところからよく分かる。

特に、先の4回の選挙で国民を称えた政党が、一度の小さな敗北で国民を責める姿は、見る者を唖然とさせ色を失わせる。「農夫は畑のせいにしない(訳注:故盧武鉉大統領の言葉)」と言った政治家を継承すると言わなかったか?いつでもそうだが、国民に勝った政治家はいない。

李官厚(イ・グァヌ)慶南研究院研究委員。写真は京郷新聞提供。
李官厚(イ・グァヌ)慶南研究院研究委員。写真は京郷新聞提供。

民主化以降、有権者たちは概して常に冷徹だった。国民は、時によって必要な政治家を選んで責任を任せ、またその責任を厳しく問うた。いま国民の多数は道徳的な不感症や情報が足りないなどの理由で間違った投票を行わない。ある人は利益のために投票し、ある人は利益に反してでも意見を表すために投票する。どちらがより合理的かと言うことはできない。

両党の熱血支持者の目には、相手の党がどれほどイデオロギー的に歪曲され、無能で腐敗しているのかを国民はよく知らないと映るかもしれないが、とんでもないことだ。少なくとも1997年以降、そんな事は起きていない。

だからこそ問題は民主主義ではなく政治にある。民主主義は作動している。しかし政治がうまく作動していない。政党がますます少数に捕獲されているためだ。それは社会・経済的な両極化、企業のロビー、専門家と官僚に対する依存、エリートたちのカルテルが強化された結果だ。ここに怒りと葛藤を助長し、増幅するマスコミがさらに悪影響を及ぼす。

このような条件の中で、利己的かつ煽動的で、我執にとらわれた政治家たちは、周囲の人々の言葉を世論であるかのように針小棒大に扱い、自分たちに有利な結果となる表面的な世論調査の結果を、大きな証拠であるかのように提示する。

民主主義の下でも政治は失敗することが常にある。政治の失敗がもたらす最悪の結果は、政治への嫌悪だ。政治嫌悪は、それが嫌悪であるために悪いのではなく、嫌悪をさらに構築するから悪い。悪い政治家たちは政治嫌悪を歓迎する。政治嫌悪が彼らの生存力を高めるからだ。

そのため、依然として希望は政治にある。政治以外の手段で私たちが公的な決定を下す方法はない。政治とは不完全な世界で不完全なことをしようとするものだ。

妥協と調整を恐れない政治家に勇気を与えなければならない。政治を批判しつつも、政治を尊重する政治家を私たちも尊重してあげなければならない。多数の国民に耳を傾ける政治家に拍手を送らなければならない。それが民主主義で政治が作動する方式だ。

原文リンク:[정동칼럼]여전히 희망은 정치에 있다

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著者紹介:
李官厚。西江大学政治外交学部、同大学院修士課程卒業後、英国University College Londonで政治学博士を取得。西江大学現代政治研究所研究教授などを経て現在は慶南研究院で研究委員を務める。過去、2人の国会議員の下で合計6年間のあいだ補佐陣を務めた経験もあり、陣営論に捉われない発言で知られる。今年4月、翻訳書『政治を擁護する(バーナード・クリック)』を上梓した。


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