著者:曺美樹(チョウ・ミス)。東京生まれ。日本で国際交流NGOのスタッフとして従事後、2014年より韓国在住。現在はニュース翻訳、日韓の市民社会活動をつなぐ交流のコーディネートや通訳、平和教育に関する活動に携わる。現在、KBS World Radio 日本語放送「土曜ステーション」のパーソナリティーを担当。
「私は高校生だった」
独り言にしてはやけにはっきりとした声が聞こえ、えっ、と振り返った。数年ぶりに訪れた5月の光州。国立5.18民主墓地の敷地内にある5.18追慕館で、私は展示パネルに見入っていた。私の目の前にあるのは、戒厳軍が市民を鎮圧する様子の写真。声の主は私のすぐ斜め後ろで、通路に置かれた四角い造形物にちょこんと腰かけた初老の男性だった。静かな展示会場には私とその男性しかいなかった。彼は私を通り越して、銃剣を構えた兵士とひざまずくように倒れ込む市民が写った写真を見つめていた。
「あの…5.18のときですか」
と、私は聞いた。どう質問するのが正しいのかわからなかった。彼はうなずいて言った。
「軍人が、普通の人を銃剣で突いたり、殴ったりしていた。最初は北朝鮮軍が来たのかと思ったよ。ところがウリナラ(我が国)の軍が、自分の国の国民を殺していたんだ」
男性は訥々と言葉を続けた。
「そのときちょうどソウルから来ていたんだが、このせいで光州から出られなくて、1カ月くらいいた」
私は驚いた。光州市民ではなく、たまたま「巻き込まれた」人の存在を考えたことがなかった。
「あのときの光景が頭から離れない。忘れようとしても思い出してしまうんだ。なんていうんだっけ…そう、トラウマになってね。それで、毎年5月の17日、18日には光州に来るようにしている」
「当時、どうして光州にいらしたんですか」
「父を探しに」
男性の答えは短く、それ以上続きはなかった。私は迷いながら「ご家族も一緒でしたか」と聞いた。家族と一緒に光州に来たのか、という意味で尋ねたのだが、彼の答えは質問の意図とは違った。
「家族…家族はみんな死んだよ。トラウマで死んだ。私一人残った」
彼はため息をつくように、みんなトラウマで死んだ…と繰り返した。
とぎれとぎれのやり取りの末、彼は母親などと一緒に父親を探しに光州に来て抗争を迎え、そのまましばらく滞在したということがわかった。結局父親は見つかったのかと、私は尋ねた。
「投獄されていた。父は中央…の所属だったが、裏切られたんだ」
男性の言葉ははっきりと聞き取れなかったが、「中央情報部」と聞こえた。中央情報部とはKCIAと呼ばれた朴正煕政権時代の諜報機関だ。もしかすると聞き違いかもしれなかったが、私には尋ね返す勇気がなかった。もしもそう聞こえた言葉が正しかったとしたら――10.26事件直後のその時代、中央情報部にいたが裏切られて投獄されたという父親がどんな目に遭ったかは、想像するのも恐ろしかった(※1)。
※1 1979年10月26日、朴正煕大統領が中央情報部部長の金載圭に暗殺された。その後、済州島を除く全国に非常戒厳令が宣告され、12月12日の軍事クーデターで全斗煥が実権を握った。

「家族の話をすると、この辺が痛い。ちりちりする」
彼は右手で胸の辺りをかるく押さえ、左手でミネラルウォーターのボトルを握りしめて言った。
短い沈黙。そして、彼は静かに口を開いた。
「ああ、もうやめましょう。やっぱりだめだ。こんな話はやめましょう」
声はかすれ、微かに震えていた。「余計なことまで言ったようだ、すみませんね」と彼は私に謝り、もうお行きなさい、と言って小さく手を振るのだが、私はその場を立ち去ることができず、かといって何を話せばいいのかわからずうろたえていた。結局、政治の話などを二言三言交わした。
「この国は、高句麗・百済・新羅の時代から地域感情が変わっていない。ずっと分断されている」
彼は最後にそんな風に言った。
追慕館を出ると、雨が上がっていた。歩いて10分ほど離れた望月墓地公園に向かいながら、初めてここに来たのはちょうど8年前だったと思い出した。当時どんな説明を聞いたかはあまり覚えていない。ただ、1980年5月当時、民主化運動の犠牲者の遺体を運んで埋めたという望月墓地公園は、新しく整備され遺骨が移葬された国立5.18民主墓地よりも、ずっと多くを物語っているという印象が残っていた。それでどうしてもここを訪ねたかった。
なだらかな丘に沿って段々に墓標が並ぶ墓地は、記憶のそれよりもずっと広かった。市立墓地なので当然一般の人々の墓が大半だ。どこで黙祷を捧げようかとしばし彷徨ったが、胸にバッジをつけた背広姿のグループや旗を掲げた組合のグループが集団で移動しながら参拝しているのを見つけ、光州民主化運動犠牲者の墓がある第3墓園に辿り着いた。

一つのグループの前でマイクをつけて説明している若い女性の声が聞こえた。そのグループの最後尾あたりにそっと立って説明に耳を傾けた。
「光州では、ほかの地域では5月に行う学校の文化祭も、9月に行ったりします。光州において5月は、楽しい祝祭を開ける月ではないからです。5.18は、いつまでも忘れることのできない私たちの共通の記憶だと思います」
女性の締めくくりの声が、りんと響いた。
「現在においてその記憶に当たるのが、セウォル号惨事だと、私は思っています」(※2)
※2 2014年4月16日、 旅客船セウォル号が沈没、修学旅行中だった高校生250人を含む304人が死亡した。徹底した救助活動がなされず、当時の朴槿恵大統領は事故直後7時間不在だった。遺族をはじめ市民は国家の責任追及と事故の真相究明を求め長期間街頭デモを行なった。
帰りの交通手段をちゃんと考えていなかった。墓地からバスに乗って行くと目的地まで1時間以上かかり、予定の時間に間に合わなそうだ。ところが、アプリでタクシーを何度呼んでも周囲に空タクシーは見つからなかった。焦ったあまり、墓地公園の管理事務所から出てきた人をつかまえてコールタクシーに電話してもらったが、「配車がないみたいだ」というそっけない返事だけが返ってきた。
しかたなく、人気のないローカルバスの停留所でいつ来るともわからぬ「518番バス」をぼんやり待っていた。すると、目の前にすっと車が停まった。「郵便局に行くついでに途中まで乗っけてあげるよ」と運転席から顔を出したのは、さっき管理事務所でコールタクシーに電話をかけてくれた所長さんだった。
所長さんは黙って運転し、私は見知らぬ人の車に乗ってしまったことで全身緊張してやはり黙っていた。しばらくして所長さんは、聞いても聞かなくても構わないという感じで、ふいっと言葉を投げた。
「墓地に、私の友だちもいるんだ」
私はまた、どう応えればいいのかわからなくなり、追慕館のときと同じように、5.18で…?と聞いた。
「そう。中学生だった」
所長さんがぽつりぽつりと話す言葉は断片的で、そのうえマスクと光州訛りのせいで、よく聞き取れなかった。なので、ある程度予想で補いながら聞いたのはこんな話だ。
――5.18の数年後、ぼくは戦闘警察に行ったんだ。人生というのは皮肉なものだね。ずっと心の隅に後ろめたさがあった。それでその後、有給休暇を使ってデモに行ったりしたね…。
所長さんはずっと光州で暮らしたんですか、と尋ねると、そうだと答えた。「じゃあ望月墓地の管理事務所のお仕事は長いんですか」と私が尋ねたのは、後ろめたいという言葉から、なんらかの償いの気持ちもあって墓地の管理をしているのだろうかと勝手に想像したからだった。しかし所長さんは、
「いや、長くない。都市公社からの配属だから」
と、あっさり答えただけだった。

「5.18」、オーイルパル。光州民主化運動のことを韓国ではこう呼ぶ。光州騒擾、光州暴動など、捻じ曲げられた呼称に翻弄された1980年5月のこの事態は、97年にようやく「5.18民主化運動」という正式な名前を得た。80年5月18日から27日までの10日間、民主化を叫んだ学生と市民たちに戒厳軍は戦車と銃口を向け、光州はまさに戦場と化した。それはその後、87年の6月抗争を頂点とする粘り強い民主化闘争へとつながった。現在の韓国で、民主主義を「勝ち取った」と必ず形容するのは、光州で流れた血の犠牲があるからだ。
5.18を哀悼と誇りをもって口にすることのできる時代になってから、韓国現代史に改めて目を向けるようになった私は、しかし、5.18をどう「感じ」ればよいのか長い間わからなかった。「光州民主化運動」の輪郭はしっかりと見えるのに、その縁どられた中身の色彩や質感を捉えられなかったのだ。
今回光州を訪ねてみて、ほんの少しながらわかった。光州の街のすみずみに、5.18の記憶が染みついている。
市民デモの拠点となった全羅南道庁前広場の噴水台、市民がぼろ布のように引きずられていった錦南通り、ヘリ銃撃の弾痕の残る全日ビルの壁といった象徴的な場所だけでなく、いや、むしろそれらの象徴的な場所が語りきれない数々の記憶が、その後の日々を生き続けた光州の人々のなかで今も疼いている。5月が来るたびに、どこかの展示写真の前で、あるいは墓の前で、誰かの言葉にならない物語がじくじくと染み出るのだ。
光州は国家暴力への怒りと痛みを生々しく記憶する。だからこそ現在の国家暴力に反応し、抵抗の声に連帯する。2014年4月16日のセウォル号沈没事態後、国家の責任と真相究明を叫んだ遺族たちに5.18の遺族たちはいち早く連帯の手を差し出した。2021年5月の光州では、街のあちこちにミャンマーの反クーデター市民デモの写真や支援の横断幕が張り出されていた。
5.18はいまだ歴史になっていない過去であり、終わっていない過去だ。
(了)